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総合整体院 コンフォート

総合整体院 コンフォート

「最近花ばっかりや」って風の便りがありました

なので、少し頑張っておさらいをしました

名著だと思います

『私がもう一人の私とどう付き合うか』

             ・・・・「影の現象学」河合隼雄著から

影との「付き合いは」は危険に満ちているが、その意義も深い。

影は「もう一人の私」の存在として自覚される事が多く、

『私がもう一人の私とどう付き合うか』という事が本書の課題とも言う事が出来る。



「私」とは、

私が私として意識し得る事、

私の過去の経験のうちで記憶に残っている事、

現在私の感じている感情、思考している事、

それに知覚している事、

等の全てはある程度の統合性を有しひとつの人格としてのまとまりを持って存在している。

ユング派ではこのような私の意識の統合性の中心を「自我」と名付けている。

つまり、自我は私の「意識経験の主体」であり、その中心である。

深層心理学の多くの研究は、その自我が、我々の心の動き全てに対して、完全な主体性を持っているものではない事を明らかにして来た。

...中略

実際自分の無意識に動かれて行動し、後に成ってから後悔しても、自らの破滅を防ぎきれない様な事が起こりえるのである。

その「無意識の心の動きを把握するもの」として、「イメージ」が有ると考えられる。

人間の意識領域は自我によって統合され、言語によってその内容を把握する事が出来る。

たとえば、名前、出生地、学校で習った知識等はすべて言語化する事が出来る。

(なので、言葉が話せない時の記憶はイメージとして存在している)

しかし、自我によって確実に把握する事が難しいものほど言語化する事が難しく成ってくる。

まったく無意識に属する事は、意識的に把握されるはずがない。

しかし、意識と無意識の領域はそれほど画然としたものではなく、その中間領域辺りの動きは、イメージとして把握されると考えられる。

このような意味でのイメージに最もよく当てはまるのが「夢」である。

睡眠中に自我の統制力が弱まる為、無意識的な動きが活発となりそれを自我によってイメージとして把握したものが夢であると考える。

その夢を分析する事によって、われわれは自分の無意識界の動きやあり方を推察できるのである。

夢ではなく、外界の知覚に際してもイメージのはたらきが認められるときが有る。

例えば、他人に秘した悪事を持っていると、他人が話しあっているのを見るとすぐ自分の事を言っているのではないかと感じたりする。

これは無意識的な恐れの感情が、その様なイメージを提供する為、外界の知覚を歪曲させるのである。

あるいは、未開人の様に自我の力が弱い場合、外界の知覚と内界のイメージとは融合が生じやすく、朝日の昇るのを見るとき、それは神そのものと体験される。

つまり、朝日を見て、それを神とみなすと言う二段構えの心の動きではなく、外界にある朝日と内界にある神のイメージとは完全に融合しひとつの物として体験されるのである。

この様な劇的な体験を記録するものとして、神話、伝説、昔話等が存在されると考えられる。

このような観点から見れば、神話、伝説、昔話等は豊富なイメージの記録を提供するものであり、夢との類比性も非常に高いのである。


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